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三献茶
こんにちは。
いつもありがとうございます。
茶っぴ~です。
ふとタイトルのお話を思い出しました。
ご存じの通り、「三献茶」は石田三成のエピソードです。
ある日、豊臣秀吉が鷹狩りの途中に訪れたお城で、秀吉にお茶を出したのが三成でした。
このとき、三成は一杯目には、大きな茶碗にぬるめの茶を入れて出しました。
二杯目の茶碗は前に比べると小さめで、湯はやや熱めで量は半分くらいで出しました。
秀吉はそれを飲み干し、もう一服を命じました。
三杯目の茶碗は高価な小茶碗で、湯は舌が焼けるほど熱く量はほんのわずかにして出しました。
鷹狩りで喉が渇いていたことや、その休憩として立ち寄ったことを踏まえ、相手の気持ちに寄り添った三成の心配りに秀吉は感動したそうです。
このお話をふと思い出したのですが、ひねくれものの私はさらにふとこんなことを思ったのです。
悪魔の私:「三成は秀吉にもっと登用してもらいたくて、計算してやったんじゃないの~」
一方で、
天使の私:「戦ばかりの戦国時代の中で、人のことを思える三成って良い人だなぁ☆」
みなさんは、どうでしょうか。
悪魔の私派ですか?
天使の私派ですか?
一つの行為も純粋な目で見るのとひねくれた目で見るのとでは大きな違いが出てきますが、真実は他人には分からないってところも人生の面白みであるのかもしれません。
また、心がはっきりどちらかに傾いているという訳でも無いでしょうしね。
三成の心の中は悪魔八割、天使二割だったかもしれません。笑
人には相手の心の感覚は分からないし、常に一つの感情が占めているわけでもないし、相反する感情さえ時によっては同居できる。また、行為からでは見方によってさまざまな解釈が生れる
ってなことを思ってたら、ふと、心って決めれないんだって思ったりします。
いろんなものが混ざり合って、何かの感覚がそこにあるって感じ。
それに対して、シンプルな表現、例えば「嬉しい」とか「悲しい」とか、「悪い」とか「良い」とかなどの言葉を用いて表現すると、いつだってどこか表現しきれないものがあるのかもしれませんね。
もし人間がそういうものであるならば、私はだからこそ「美」の必要性があるのではないかなぁと思ったりします。
心がふわふわふわふわした、定常的な存在でないのであれば、心に与えてあげる情報が常に美しくあれば、美しいところに心が落ち着いていくように感じます。
そう考えると、よく言われている
「上を向いて歩こう」
「感謝が大事」
「花はお腹は満たしてくれないが、心は満たしてくれる」
「愛すれば愛される」
こうした言葉の意味も少し納得が行くように思いました。
なんだか休憩時間にそんなことを思ったりしてました~
では、また来月に投稿したいと思います~
2011.08.24